仮に、各クラスで6人分の給食が残ったとしよう。
本校は17学級だから、6×17=102人分の生ゴミがでるということになる。
つまり、1年1組から1年3組全員分の食事をゴミにしているという計算だ。
そして、これらの生ゴミはどのように処理されているのだろうかと想像してみよう。
いっそ、家畜のえさにしてリサイクルすればとも思うのだが、衛生上の不安やBSE問題などを考えるとムリだろう。
たぶん、川下や駒丘の清掃工場で焼却処分されているのだと思う。
水気を含んだものを燃やすには、相当多くの火力が必要だろう。なにしろ完全燃焼させなければダイオキシンの不安があるからな。
全くおかしな話だが、我々のエネルギーや体の元になる予定だった食物が余され、さらに膨大なエネルギーを使って処分されていると言うことだ。
農家が心血を注いで育てた野菜や家畜、漁師が命がけで採ってきた魚、工場で神経を使って加工された食品、そして調理する者が愛情を込めて調理され、料理となって我々の前に並ぶ。
しかし、「いただきます」は、それらの方々への感謝ではない。我々の命を支えるために命をくれた、もともとは生き物だった「すべての命」に対して捧げられるレクイエムだ。
毎日の給食で、ごちそうさまのあとに必ず食缶の中をのぞく。空っぽだと何となくほっとし、残食であふれそうになっていると敵をやっつけた後のブルースリーのように、悲しい表情の気分になる。
あまりにも尊い食物が、あまりにも単純な理由であまり、あまりにも多くのエネルギーを使って処分されるという、あまりにも無念なサイクルだ。
そこへいくと、我々人間の体というのは、とても素晴らしい生ゴミ処理機だ。食べたものをしっかりとエネルギーや体の組織に変えて、いらないものだけをうんちにする。うんちは自然界において再びエネルギーになる。
もちろん、我々が食べる目的は、うんち製造マシーンになることではないと言うことはいうまでもない。
ただ、残すときには、「いただけませんでした。ごめんなさい。」という心と、それなりの理由や工夫が必要かなと思うのです。
…ということもあり、担任の大越冬(ダイエット)はなかなか進まずであります。
(…以上、今宵の学担通信でした。)