Jump to navigation
«Prev
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
Next»
2007-01-12
2007年
1月
12
金曜日
一仕事終え、帰りがけに
北海道開拓の村へ寄った。
(フォトアルバムへ)
日暮れも近く、平日ということもありまさに貸し切り。
寒さも手伝って
「19~20世紀初頭の北海道の空気」を独り占め。
今は旭川の永山、宿の客室では役人と思しき男が今期の農作物の出来について話し合っていた。
札幌師範学校武道場…つまり、後の北海道教育大学札幌分校武道場。
昭和61年まで俺もここで稽古した。窓ガラスの隙間から漏れた雪が畳に積もっていたなんて懐かしい。
ただし当時と往時は柔道場と剣道場が逆だな。
現在の市電通り側からの眺めだ…市電すらないこの頃。
ガキの頃はまだこんな感じの床屋でジョキジョキされたもんだ。
子供達は駄菓子屋に胸躍らせ…
寺の鐘と「ごはんができたよ~!」の母の声。
冬タイヤ交換…ではなく、雪用の蹄鉄交換。ちゃんとスパイクがついている。
玩具に防寒具、文房具とそろうが、夜になりゃきちんと閉まる
本来のお店。
西洋
風であることがステータスであった。
屯田兵は頑張って原始林の木の根っこを掘った。
2007年、俺は1980年代のCDをレンタルビデオ屋で100円で買う。
2007-01-03
2007年
1月
03
水曜日
なーんのプレッシャーもない正月はいい。
喰っちゃ寝の元旦。
2日はいいだけ眠り、起きたらすでにカミさんは早朝からバーゲンにお出かけ。
「ちょっと写真撮りに行ってくるわい。」と書き置きしてロータリーエンジンに火を入れる。
ハチは道央自動車道を駈け、秩父別へ向かった。
かつては、この飛行機がある場所のすぐそばに祖母宅があり、年が一ケタの頃はよくこの辺で遊んだもんだ。
旭川を通過し、美瑛に。
残念ながらちょっと曇り。
(教え子からの電話が鳴る)
至る所冬季通行止めだ。ましてやハチではちょっとでもムリはできない。
長靴に履き替えてミニトレッキング。
(牛舎からのアンモニア臭に倒れそう…)
月が綺麗だ。
急いで札幌へ戻り、身内で一杯やっているとまた教え子から電話が鳴った。
(わーった、わーったって、今行くってよ…)
ボクサー、アナウンサー、役者、ヘリのセールスマン、クルマ屋、カメラマン、ジェット機の整備、運送屋、IT屋、納豆屋…といってもバイオ屋、主婦、脱サラ教師志願、アイ○○はなんだっけ?…
「らあめん新(あらた)」
札幌市中央区南6条西7丁目(市電通り沿い)
格くんとこれ喰って帰りました。
2006-10-27
2006年
10月
27
金曜日
川合の最後も感無量だった。
巨人ファンだったころ、実は一番好きな選手だった。
新庄の最終打席では、谷繁が「真っ直ぐ放るからな。」と語りかけたそうな。
その声が聞こえていたら大泣きしたべな。
まだまだテレビで余韻が続く。
ではお休みなさい。
2006-10-24
2006年
10月
24
火曜日
高校時代の下宿先では、本州からの転勤族も多数いた。
異口同音、
「飛ばされた」とはなんとも道産子に失礼な!…とは高校生ながらに感じたモノだ。
しかし、日がたつにつれてその印象は大きく変わるようで、これまた異口同音
「北海道はいい!」とうれしそうに語っていたのが印象的だ。
「北海道ってそんなにいいのか?」という、逆輸入の疑問を確認するためにバイクで道内至る所を回ったわけではないが、つくづく
「北海道はいい」ということを知り、北海道大好き男となる。
だが、北海道は寂しかった…
特に野球では、ジャイアンツが人気だったといっても所詮「東京」である。日本シリーズで優勝しようとも北海道にお礼の頭を下げるわけがない。それでも道産子の多くは、俺も含めて応援し続けた。
「北海道に球団を!」というムーブメントが起きたときも半信半疑だったのは俺だけではなかろう。
「来るはずないべや」というのが多くの本音というかあきらめだったのではないか。
ところが夢かない、日本ハムファイターズが本拠地を移したが、
「なーんだ…」という空気もなきにしろあらず。
巨人だったら「サッポロジャイアンツ」で、サッポロビールの商品名そのままで面白かったのになんてしょうもない冗談も聞かれたほどだ。
しかしそれもまもなく払拭され、北海道の大地で育つはなにも作物だけではなく、日ハムという種がスポーツ文化を育みつつあるというのが、なんともうれしい。
「北海道日本ハムファイターズ」…名称がすでに、北海道が日本の頭を押さえているではないか!
プロ野球、日ハム以上に北海道のすべてが好きな俺にとって、こんな暑い秋はない。
明日勝って、明後日は現場で歓喜の渦に身を置けたらうれしいな。
2006-10-09
2006年
10月
09
月曜日
冬タイヤにゃまだ早い。
zzr0831-1号…
ZZR1100のフロントタイヤだ。
今までの曲がらなさがウソのようになった。
勤務校の玄関先であった生徒、そういえばこの前「美瑛」に行ったと言ってたなぁ…などと考えているウチに国道12号を北上。
途中、どこかのKAWASAKI軍団(ZZR1100のC×1、D×2、1200、GPZ…なぜかハヤブサ)に混ざり、信号待ちでちっちゃい子に手を振り、旭川回りで美瑛に到着。
すでに北海道の屋根は雪を被るが、麓はまだ秋…冬将軍が近づくの構図。
(あ、、また
レンズダストか?…と思ったら
トンボですと)
10月の割に暖かいといってもトレーナー一枚じゃ寒すぎた。
ケイトウの花が暖かそう。
2006-09-18
2006年
9月
18
月曜日
「来年の修学旅行の下見にちょっと行ってくるわい。」
「「どうせツーリングでしょ。」」…さすがカミさん、わかってらっしゃる。
天気が悪けりゃ昇段審査と思っていたが、天気が良かった。
それでもギリギリまで悩んでの
10:08、zzr0831-1号発進!
それにしても
札幌市南区は広い。
南区3つで香川県か、あるいは大阪府
より広い。
羊蹄山は札幌脱出のシンボル。
途中から急に雨が降り、駒ヶ岳が見えない。
(残念!)
函館新道初走行!
(…なんか、地元のチェイ○ーなんとかVが元気に…)
ラッキーピエロで遅い昼食。
(なぜならここは、函館自主研修ランチのメッカだからだ)
相席のご紳士は、
山形の蕎麦屋さん。
(来年の全中は山形県天童市…水車なんとかと言ってた)
新五稜郭タワーへ。
(
「下見です」のひと言でラッキーピエロ…)
好調ZZR0831-1号は、たちまち「立待岬」。
函館山は、二輪通行禁止のだったっけ?…しかし、どこにもその表示がない…
「!」…もう遅い…Uターンできない(道が狭い)…ま、いいか…登頂。
(どうせだから遊んじまえ…)
そういえば前の修学旅行の時に、ラーメン「道」の鬼、佐野さんが丁度いた
豆さんに寄ってみよう。
「イカ醤油ラーメン」を喰った。
「イカ・醤油」ではなく、「
イカ醤油」だ。
(イカは欠けらもない)
いわゆる珍味の
サキイカの風味がする。
評価:「しつこく絡む足(ダシ)による寝技の一本!」
さてさてすっかり日が暮れた。内浦湾沿いに明かりが見える。
ちょっと休むか…
豊浦町の
温泉「しおさい」で軽くひと風呂浴び、ルスツのセイコマで缶コーヒーを飲み、また走る。
三つ星の外車、六つ星の国産車(かつての愛車…)が中山峠で無茶する。
(到着時刻の数十分差にかけるにゃ、家族恋人の命はもったいないべ…)
(ちょっとヘトヘト)
家近くの駅裏の、「(走り屋)焼き鳥斉藤」で串を数本焼いてもらった。
「「大将、今日ZX10(バイク)とか4台で走ってなかったか?」」
「「いや…6台だ。」」
彼らは早朝から、俺は少々遅くから走り、途中峠ですれ違ったのを覚えてた。
zzr0831-1号のオドメーターは
「550km」、時計は
「21:38」。
(
ラッキー修学旅行にしたるわい)
2006-08-15
2006年
8月
15
火曜日
アイヌ語で、
“いつもそこに上って眺望する所”という意味を持つそうだ。
逆に、いつも眺望している割になかなか行くことのない
「藻岩山」の別名である。
石狩湾方向を眺めると、ちょうど円山の頭に琴似の高層ビルが重なる。俺が生まれた頃は砂利道と材木置き場だった場所に、高さ100mを超えるビルが並ぶ。残念ながら石狩湾は靄にかすんで見えない。中央には北大が、その右上には「つどーむ」が位置する。中心街も写るが、これでは何が何だかわからない。
中島公園付近の緑が濃い。そのやや右上の、「きたえーる(…第2の職場みたいなもんだ)と豊平公園緑地」も緑濃い。元々は墓地であったが、その気配は今や全く感じられない。右手には、月寒グリーンドームが見える。2日前、「こども科学博」に出かけた場所だが、俺には「YMO散開ライブ」の記念碑。
中央左の「札幌ドーム」は2002年サッカーワールドカップの、右端の「真駒内アイスアリーナ」は1972年冬季札幌オリンピックのスタジアム。ほぼ水平に通るは地下鉄南北線の、地下ではないシュレーター部分。
地平線右に霞むは風不死岳(ふっぷしだけ)…かどうか、自信がなかったのでgoogleearthで確認した。
スカイホールレストラン531…531は藻岩山の標高を指す。語呂合わせ好きの俺としては、「Go Sight」とこじつける。
【根室産エゾ鹿、鶏肉、野菜のスープカレー】
鉄砲を持っていたオヤジの息子だった俺としては、エゾ鹿肉は懐かしい味だ。スープは少々塩味が強めだが、それはそれでワザあり。カミさんはシーフードカレーをオーダーし、スープ以上に具材、特にイモが美味いと誉めていた。
評価:「合わせ技一本!」
2006-07-30
2006年
7月
30
日曜日
zzr0831-1号で稚内の中体連大会へ行ってきた。
最高の天気に、最高に浮かれた。
道央自動車道を終点で降り、北竜町に寄り道した。過去に来たのは盆明けだったので、今まで見たのはヒマワリの干上がりだ。
(青・黄・緑の絵の具をぶちまけたパノラマ、冷涼な空気を満喫)
留萌までは、単調な道が続く。ガスを入れに寄ったら、偶然に仲間を捕まえた。一本道とはいえなんという偶然だ。
調子よくクルーズしていると、遠別でもう一台の仲間に追いついた。
(悪いが先に行くよ)
サロベツ原野で飲んだ牛乳は格別だったが…腹がくだった。
ゴロゴロを気にしつつも、オロロンラインの風、なんとも痛快な事よ!。
やっと着いたぜ稚内。
(気づいたら「60,029km」…うっかり見逃したが、まあいい)
ノシャップ岬沖に落ちる夕日は、日本で2番目に高いだけあって(?)美しい。
地方での、仲間達と居酒屋でワイワイやっての夕食は、毎年の楽しみだ。
2日間の業務も果たし、14:30に稚内を発つ。
密かな楽しみは増毛に用意していた。
「もういいだろ。ひと思いに喰ってくれよ…。」とエビがピクピクしながらつぶやく。アワビ、ウニ、イクラ…と、「北海の幸オールキャスト」である。
そこからは一気に自宅まで。
久々に全行程802kmのクルージングを満喫した。
もちろん仕事もしっかりやったさ。
(たぶん…)
2006-07-27
2006年
7月
27
木曜日
道大会の審判のため、明日は稚内へ向かう。
天気も良さそうだし、プライベートツーリングするチャンスもなかなかないし、せっかくだからZZR1100で行こう。
たしか1993以来か…そうだ、ZZRを買った年以来だ。
その日思い立って家を発ち、
稚内のユースホステルにアポなしで宿泊し、大阪からのGSX-R1100の松本君や、中2ながら東京から一人旅の荒木少年らと仲良くなった。
早朝の市街地を、少年を後ろに乗せて走ってやったけな。確か有名私立の中学生だったから、今頃どこかで活躍しているかも知れん。
彼らと別れ、一人、礼文島にフェリーで渡り、ここでもアポなしでユースに泊まった。
知る人ぞ知る、
「桃岩荘」である。
(かつては、襟裳岬、岩尾別とあわせて、北海道き○○い三大ユースと謂われた)
漁師番屋そのままの建物、宿泊客皆でフォークソングを歌い、床が抜けるかのごとく踊り…(ちょっとついて行けなかった)、大雨で2日間も足止めを喰らったが、その分また友人が増えた。
フェリーが遠く沖へ離れても、まだ大きな声で歌って踊って見送る桃岩荘の若者達には、大きな感動をもらったのを今でも忘れられない。
おっと、今回は仕事だ。
とはいえこの仕事、実は無給のボランティア。
せっかくだから楽しもう。
途中でちょうど60,000km記念だな。
川重のエンジン、まだまだ現役。
2006-05-21
2006年
5月
21
日曜日
新卒から9年間勤務した
前任校、そして勤務10年目の
現任校、つまり20年を目前にして未だ2校というのもあまり例がなさそうだが、さらに双方は直線にして約7kmの距離を、「水源地通り」という1本道で結ばれている。
おまけに校舎は、両方とも昭和56年バージョンで、階数の違いこそあれども二卵生双生児に近い。
(実年齢は34歳差だが)
生徒達のなつっこさも似たようなモン。
水源地通りの起点は、名前の通り
(2006/05/21撮影)
西岡水源池(→「札幌の文化財」へ)だ。
前任校時代、校区にもかかわらず実は一度も散策したことがなかったというのは、今になってみればもったいない。
現任校での部活レクとして行ったのが初散策で、
カエルの卵を生来初めて見て驚く生徒に驚いた。
いずれは、
水辺に飛び交う
「生きたLED」を、生まれて初めて見て大感動する生徒を見て感動したい。
(ヒマな西O中OBよ、そんときゃ手伝ってくれるかい?)
«Prev
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
Next»